約翰聖福音書叙言

(一)記者。或は曰く、第四福音書の使徒ヨハネの筆に非ず、と。然れども、古傳は明にヨハネの記述なる事を主張し、公教會に於ても亦固く此説を執れり。ヨハネはビベデオとサロメとの子としてヤコボの弟なり、漁業を生計とし、曾て父と共に船に居りしを、曾兄と共にイエズスに召され、直に一切を舍きて之に從ひしが、十二使徒中齢最も若くして、終に最愛の弟子となれり。是によりて、ペトロ及ヤコボと共に、特別にイエズスの重なる奇蹟に立會ひ、山上に於る變容をも、ゲツマニに於る苦痛をも見ることを得、最終晩餐の時も、最愛の弟子としてイエズスの傍に居り、イエズスが十字架に上り給ひし時も、聖母マリアを托せられしなり。兄と同じく熱誠なる氣質なりければ、イエズス綽号して雷の子と呼び給へり。br/ イエズス昇天し給ひし後は、ペトロと共に居りし事屡使徒行録に見え、エルザレムの會議にも列席せりと見ゆ。其エルザレムを離れて異邦人に布教せし時代は明ならざれども、古傳は皆、彼が小アジア殊にエフェゾに住みたりし事を證せり。歴史家の傳ふる所によれば、ドミシアン皇帝の時煮油の中に入れられしも、助かりて無事に出でたるを、パトロス島に流され、トラヤン皇帝の時約紀元百年頃終にエフェゾに死せり。

(二)目的。本書はの目的は第二十章の終に記せる如く読者をしてイエズスのキリストたる事を信ぜしめん為なり。古傳に據れば恰も第一世紀の終に當り、イエズスの神性に就きて種々の説起りしかば、信徒の願によりて之を明に示しなるなり、と云ふ。他の三福音書は、キリスト教の始めて宣傳せられし頃に書きしものにて、イエズス、キリストが人の間に在りて言ひ且行ひ給ひし事、即ち外部的記述を専にしたるに、本書は之に反し、主として其内生、即ちキリストの御心に在りし事、神たる父との関係を述べて、事實よりは言を載すること多く、他の福音書よりは高尚にして、一層理想的なりとす、又他の福音書に載せざる事を述べて、其足らざる所を補へるが如き所多し。

(三)区分。本書は全然イエズスが神の御子なることを諭さん為に記述せられたるものなり。故に最初よりイエズスの御言たる事、即ち神の第二位たる事を主張し(一章一節乃至十八節)、次は之を二篇に分つべし。第一篇はイエズス自らキリストなる事を世に示し給ひし事を述べ(一章十九節乃至十二章五十節)、第二篇はイエズス御布教の結果としてその光榮に顕れたる事を、晩餐後の談話と受難の復活とを以て示し(十三章乃至廿章)、終に湖の辺の出現を述べて局を結ぶ(廿一章)。尚詳細は目録に就きて見るべし。

(四)言語場所及年代。本書の用語は純粋のギリシヤ語にして、最平易坦率なれども、語法にはヘブレオ語固有の所多きを以て見れば、原ヘブレオ語なりしをギリシヤ語に訳したるなるべし。br/ 古代の著述家の言ふ所によれば、本書はエフェゾに於て認められしものにして、年代は第一世紀の終、即ちヨハネの晩年なるべし。